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今日の1曲【Destiny's Child - Lose My Breath】

 

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出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
デスティニーズ・チャイルド
Destiny Child at Super Bowl XLVII halftime show.jpg
第47回スーパーボウルハーフタイムショー(2013年2月)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テキサス州ヒューストン
ジャンル R&Bヒップホップポップソウル
活動期間 1990年 - 2005年
レーベル コロムビア・レコード
 
旧メンバー ビヨンセ(1990年 - 2005年)
ケリー・ローランド(1992年 - 2005年)
ミシェル・ウィリアムズ(2000年 - 2005年)
ラターヴィア(1990年 - 2000年)
ラトーヤ(1993年 - 2000年)
ファラ(2000年)

デスティニーズ・チャイルドDestiny's Child)は、アメリカ合衆国R&B音楽グループ。1997年にデビュー以来3000万枚以上アルバムを売り上げている。日本ではデスチャ愛称で親しまれている。

目次

来歴

オリジナルメンバーは4人組。テキサス州ヒューストン出身のビヨンセBeyoncé Knowles、本名:Beyonce Giselle Knowles 1981年9月4日 - )とラターヴィア(LaTavia、本名:LaTavia Marie Roberson 1981年11月1日 - )が1990年にグループを結成し、1992年ジョージア州アトランタ出身のケリー・ローランドKelly Rowland、本名:Kelendria Trene Rowland 1981年2月11日 - )、1993年ラトーヤ(LeToya、本名:LeToya Nicole Luckett 1981年3月11日 - )が加入し、カルテットを結成[1][2]ビヨンセとケリーは、デビュー後しばらくは従姉妹とされていたが、最近はビヨンセの父であるマシュー・ノールズの友人の娘とされている(2人の関係は諸事情があるようで、マシューがケリーの後見人になっていることから、2人は異母姉妹との説もある)。

4人は各々の地元と、ビヨンセの母であるティナの美容院で活動した。グループは1992年、地方公演後にCBSテレビ番組スター・サーチ」(Star Search)にエントリーしたが、 結成当時「Girl's Tyme」[3]命名されたこのグループの評価は星3つで、番組で優勝はしたものの、本意な成績ではなかった。マシューは彼女らの夢を叶えるため、何十万ドルの給料だったゼロックスを退職し、マネージャーに専念することを決意。グループ名を聖書からの引用で「デスティニーズ・チャイルド(Destiny's Child:運命の子)」と変える[4]

クリスティーナ・アギレラTLCのツアーの前座を経験し、初楽曲を提供したのは、1997年映画『メン・イン・ブラック』のサウンドトラックに収録された「キリング・タイム」(Killing Time)。それが評判を呼び待望のデビューとなり、1998年にデビュー・シングル「ノー、ノー、ノー パート2」(No, No, No Pt. 2)が全米チャートで3位、R&Bチャートで1位の大ヒット[2][5]。同年に発売のデビュー・アルバムデスティニーズ・チャイルド』(Destiny's Child)は、フージーズワイクリフ・ジョンジャーメイン・デュプリ、ドゥエイン・ウィギンズ(D'wayne Wiggins)、コニー・ルーニー&マーク・モラレス(Cory Rooney&Mark Anthony Morales)などのプロデュースを受け、ゴールド・アルバムに選ばれる。

メンバーも作詞やアレンジに参加し、旧約聖書モーゼの戒律をコンセプトとする2ndアルバム『ライティングズ・オン・ザ・ウォール』(The Writings On The Wall)は、シェイクスピア(Kevin "She'kspere" Briggs)、キャンディ(Kandi Burruss)、ロドニー・ジャーキンズ(Rodney Jerkins)などがプロデュースし、1999年7月に発表[2]。アルバムからのファースト・シングル「ビルズ・ビルズ・ビルズ」(Bills, Bills, Bills)は、全米ビルボードシングル・チャートで1位、R&Bチャートでは9週1位を獲得。セカンド・シングル「バガブー」(Bug-a-Boo)はR&Bチャート1位を記録。2ndアルバム『ライティングズ・オン・ザ・ウォール』は、全米で700万枚、世界で1000万枚を売り上げた[5]。一方、ラターヴィアとラトーヤはギャラや待遇面でビヨンセをあまりに不公平に扱うマシューに、以前から不満を持っていた[4]。メンバー内の確執は噂されていたが、同年、2人は突如グループから脱退させられる(2人やファンも知らない間に「セイ・マイ・ネーム」(Say My Name)のPVに新メンバーが登場していた)[6]。そのため、2人はグループらを相手に訴訟を起こし、2000年には約200万ドルの賠償金を受け取ることで結審。ラトーヤは2005年ソロデビュー。

2000年2月、イリノイ州ロックフォード出身のミシェル・ウィリアムズMichelle Williams、本名:Tenetria Michelle Williams 1980年7月23日 - )とファラ(Farrah、本名:Farrah Franklin 1981年3月3日 - )の2人が正式に新メンバーとして加入するが、ファラは頻繁に遅刻や欠勤を繰り返し、その怠惰な私生活を理由に解雇される[2]。7月以後の活動は3人編成となり、映画『チャーリーズ・エンジェル』の主題歌「インディペンデント・ウーマン」(Independent Women)が全米ビルボード・チャートで11週連続1位の大ヒットとなる[2][5]

2001年、「サヴァイバー」(Survivor)を発表。400万枚以上のセールスを記録。この曲が収録された同名3rdアルバム『サヴァイバー』(Survivor)はメンバーのビヨンセ初の本格プロデュースで(起用プロデューサーも選択)、デスチャのアルバムで初の全米1位を獲得し、世界14か国でも1位となった[2][5]。9月7日と10日(アメリカ同時多発テロ事件の前日)ニューヨークで行われたマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)のソロ30周年記念ライブにて、「ブーティリシャス」(Bootylicious)をマイケルの前で歌う。その時はマイケルのように帽子を被り、マイケルのダンスをして会場にいたファンに喜ばれた。同年末にクリスマス・アルバム『8デイズ・オブ・クリスマス』(8 Days Of Christmas)をリリース後、活動休止。

それぞれのソロ活動という3年の休眠期間を経て、2004年先行シングル「ルーズ・マイ・ブレス」(Lose My Breath)をリリース後、4thアルバム『デスティニー・フルフィルド』(Destiny Fulfilled)を発表。初期はリードボーカルというスタイルを取り、ジャケット写真では常に中心だったビヨンセだが、本作では他の2人のヴォーカルの魅力を生かし、3人のバランスが取れたR&B色の濃い作品になっている[2]。また、3人の人気は、2005年にバービー人形になったことにも象徴されている。

2005年4月から、日本公演(5会場6公演)の広島公演を皮切りに、マクドナルドをメイン・スポンサーとしてワールドツアー「デスティニー・フルフィルド…アンド・アイ・ラヴィン・イット」(Destiny Fulfilled... and Lovin' It)を展開。同ツアー中の6月11日、スペインバルセロナで行なわれたライヴ中に突然解散を表明。人気絶頂の中、9月10日カナダ バンクーバー公演を最後に解散[2]。同年11月15日カリフォルニア州ハリウッドで収録された、アメリABCテレビ番組ジミー・キンメル・ライブ」でのパフォーマンスが最後の出演になった。今後、ビヨンセとケリーは主に歌手と女優として、ミッシェルは主に舞台でそれぞれソロ活動を続けていく。

解散後間もない2006年2月19日に、ヒューストンで開催されたNBAオールスターゲームで1日限定の再結成。試合前の国歌斉唱のパフォーマンスを披露した。

2009年、再結成ツアーを計画し、さらにスタジオで新曲をレコーディングする可能性もあったとされる。「私たちはまた一緒に仕事ができるのをすごく楽しみにしている。全員揃ってスタジオに入れる時間をスケジュールを確認して調整しなくちゃいけない」とケリーは語るが、のちにビヨンセサイドがこの話を否定している。

その後、2013年2月3日、第47回スーパーボウルのハーフタイムショーにおいてビヨンセの出演が決まっていたが、ショーの中盤にサプライズとしてケリーとミッシェルが登場し、デスティニーズ・チャイルド時代の曲を披露。再び1日限定の再結成となった。

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