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今日の1曲【J Dilla Feat. Common & D'Angelo - So Far To Go】

 

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出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 

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J Dilla
出生名 James Dewitt Yancey
別名 Jay Dee
生誕 1974年2月7日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト
死没 2006年2月10日(32歳没)
ジャンル ヒップホップR&B
職業 歌手作曲家
音楽プロデューサー
活動期間 1997年 - 2006年
公式サイト http://www.j-dilla.com

J Dilla(ジェイディラ、1974年2月7日 - 2006年2月10日)は、アメリカミュージシャン音楽プロデューサー作曲家歌手。本名James Dewitt Yancey。ミシガン州デトロイト生まれ。アメリカでヒップホップR&Bを中心に幅広く活躍したプロデューサー(トラックメーカー)、MC(ラッパー)である。初期はJay Dee(ジェイディー)、後期はJ Dillaの名で、グループとしてはスラム・ヴィレッジ英語版1st DownThe UmmahThe Soulquariansの一員として、またサイドプロジェクトではJaylibとして数多くの作品を発表した。

幼少時代[編集]

J Dillaは4人兄弟の2番目として、母は元オペラ歌手、父はジャズベーシストという音楽に恵まれた環境に生まれる。彼は幼い頃から彼の両親から音楽を学ぶと共に様々なレコードを集めており、そのレコードの影響もあって様々な楽器の演奏、そしてラップに情熱を傾けるようになる。高校に入学後、彼は学友のT-3、バーティンと、自身はJay Deeとしてスラム・ヴィレッジ英語版を結成すると共にテープデッキでビートの作成を開始した。

初期の活動と成功[編集]

1992年になると、元FunkadelicのキーボーディストであるAmp FiddlerJay Deeの才能に感動しテープエディットしか知らなかったJay DeeMPCの使い方を教える。Jay DeeはMPCの使い方を素早くマスターし、1994年にその機材で作ったデモテープがAmp Fiddlerを介してA Tribe Called Questのツアーでデトロイトを訪れていたQ-Tipの手に渡る。これがきっかけで後述するThe Pharcydeの2ndアルバムとThe Ummahに関わることになる。1995年になるとJay DeeはMCのPhat Kat1st Downを結成、デトロイトで初めてメジャーレーベル(Paydayレコーズ)と契約したヒップホップグループとなった(ただし、Paydayレコーズの倒産によってたった1枚のシングルを発表したのみ)。

同年、The Pharcydeの2ndアルバム『Labcabincalifornia』の『Runnin'』『Drop』を含む6曲の制作とシングルでのリミックスを手がける。本来Q-Tipが手がけるはずであったが、Q-Tipは多忙のためにデモテープで気に入っていたJay Deeに制作を委託。1996年にこのアルバムからのセカンドカット『Runnin'』が大ヒットし、またスパイク・ジョーンズが監督したB面曲『Drop』のPVがその奇抜な映像で反響を呼び、Jay Deeは一躍新人プロデューサーとしてデトロイトのみならずアメリカ全土に広く知れ渡る事になった。また同年にはDe La SoulBusta Rhymesア・トライブ・コールド・クエスト等のシングルやそのリミックスを手がけ、特にア・トライブ・コールド・クエストとはメンバーであるQ-TipAli Shaheed Muhammad(後年Tony! Toni! Toné!Raphael Shadeeqが加入)でプロデューサー・チーム「ウマー英語版」を結成。ウマ―は、ア・トライブ・コールド・クエストの4thおよび5th、Q-Tipのソロアルバムやジャネット・ジャクソン等、様々な大物のアーティストを手がける一方、インディーレーベルからスラム・ヴィレッジ英語版の1stアルバム『Fantastic Vol.1』のリリース等、Jay DeeはHip HopのみならずR&Bとしても最も有名なプロデューサーの1人になった。

最盛期とソロとしての活動[編集]

彼のソロ・アーティストとしてのデビューは、2001年のシングル「Fuck The Police」であった。ファーストアルバム『Welcome 2 Detroit』は、イギリスのインディーレーベルBBEから〈Beat Generationシリーズ〉として発表された。同年、彼は自身の芸名をJay DeeからJ Dillaへと改名し(同業者Jermaine DupriがJ.D.へと改名したため混同を避ける為だと思われる。)、ソロキャリアを追うためにスラム・ヴィレッジ英語版から脱退した。2000年代に入るとスラム・ヴィレッジ英語版は『Fantastic Vol.2』でメジャーデビューすると共に、新しいプロダクションチームThe SoulquariansをThe Rootsドラマー?uestloveディアンジェロJames Poyserらと共に結成した。また、エリカ・バドゥTalib Kweliコモンらを含む数多くのアーティストに向けて、The SoulqueriansとしてもJay Deeとしてもプロダクションを手がけてヒットを飛ばした。

2002年メジャーレーベルMCAでソロとして契約すると、Frank-N-Dankのアルバム『48HRS』全体を手がけるがリリースされず、MCAから商業的な曲を作るように要求され、再度録り直しをするも結局、お蔵入りしてしまった。このことに彼は落胆を表明していた。ちなみに同作は、10年後の2013年にDelicious Vinulレーベルから『48 Hours』のタイトルで発売されている[1]

彼はラッパーとしてよりはプロデューサーとして知られていたが、MCAからリリースするはずであったアルバムにおいてラップに徹して、プロダクションについては彼が認めるアーティストであったマッドリブピート・ロック、Hi-Tek、Supa Dave West、カニエ・ウエスト、NottzやWaajeedらに依頼した。しかし、このアルバムの音源自体は完成していたものの、2003年にMCAがゲフィン・レコードに吸収されたことを受けて、リリースされずにお蔵入りとなってしまった。ちなみに同作は、2016年に『ザ・ダイアリー』としてリリースされた [2][3]

晩年と死後[編集]

2002年にロサンゼルスのプロデューサーでMCであるマッドリブと共にJaylibというグループを組み、2003年に『Champion Sound』を発表した。同年、J・ディラは元々弱かった肝臓を痛めて体重が激減する等、体の不調によって活動範囲は非常に限定されてしまい、それ故に2004年から2005年にかけてのリリースは多作な彼にしてはゆっくりした物になってしまった。しかし、リリースでなく彼はビートを作っては自身でインターネットでリークしており、たとえ病床についていようと音楽を作り続けていた。彼は2005年の11月にヨーロッパのツアーで非常にやせ細った体に車椅子という痛々しい格好でステージに立ち、この時初めてJ・ディラの病気の深刻さが広く知らしめられた。後に明かされることだが、彼は全身性エリテマトーデス(全身の臓器に原因不明の炎症を引き起こす病気)を引き起こす可能性のある希な血液病、血栓性血小板減少性紫斑病に悩まされていたのであった。

2006年2月10日J・ディラは、その短くも輝かしい人生に幕を閉じた。彼の母いわく「死因は心臓停止であった」という。3日前に自宅で32歳の誕生日を迎えて、生前最後のアルバム『ドーナツ』をリリースした矢先のことであった。

しかし、『ドーナツ』に次ぐオリジナルアルバムとして『The Shining』や『Jay Love Japan』がリリースされたのみならず、彼の死後に出た多くのアーティストによる新譜にもJ・ディラの名前がクレジットされている。未発表音源集や廃盤になっていた音源が続々と発表/再発されるなどしてJ・ディラの音源は世に出続けており、彼の名前は今でもレコードショップの新譜コーナーで見ることができる。その内容や生前の活躍に対して様々なアーティストが哀悼の意やトリビューソングが発表されている。また、メディア/レコードショップなどで「ネクスJay Dee」という表現でJ・ディラに強く影響を受けた新人の作品がフックアップされていることも多い。

 

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